●あらすじ
「たった一度関係を持っただけ」のはずだった侯爵家嫡男フィン・ブルーイットから、次の舞踏会のエスコートを申し込まれてしまった伯爵家令嬢のシュゼット・ロア。
恋愛にトラウマを持つシュゼットは、これ以上関係を進めるつもりは無いことを、遠回しにフィンに伝えようとする。
しかし、フィンは彼女の抵抗を受け入れず、甘い言葉をかけ続けてきて‥…。
●立ち読み
 侯爵家嫡男の乗る馬車は、華美すぎず上品なつくりだった。椅子には手ざわりのいい天鵞絨が張られていて、つめものがたっぷり入っている。
 シュゼットはさりげないふうを装いながら、フィンからなるべく離れるためにはす向かいに腰かけた。
 先手必勝で声をかける。

「フィンさま。このたびはエスコートのお申し出をいただき、どうもありがとうございました。たった一夜をともにすごしただけのわたしにお声をかけていただき、とても驚いております」

 フィンは、まばたきをしたあと困ったようにほほ笑んだ。

「俺がきみに会いたかったから手紙を送ったというだけだ。むしろ、受けてくれてありがとうとこちらがお礼を言いたいよ」

 フィンの笑顔は初めて会ったときとかわらない。こちらの警戒や緊張をときほぐすような包容力がある。

「それに、驚かれるのも心外だな。言ったろう? きみに会いたいから、手紙を書くと」

 シュゼットは、警戒心を強く保ちながらそっけない態度を続けた。

「寝物語だと認識しておりましたので」
「ふふ、俺をそういう男だときみは思っているんだね」

 フィンに気分を害した様子はない。

「その誤解はおいおい解いていくとして、シュゼット。今日のきみは、前会ったときよりもずいぶんよそよそしいような気がするんだけど?」
「先日は酔っておりましたので、フィンさまに対して無礼な口をきいてしまいました。申し訳ございませんでした」
「わかりやすいうそをつく」

 ほほ笑んだままフィンは長い脚を組んだ。シュゼットはぎくりとする。

「うそなどついておりません」
「きみは俺を警戒しているんだろう? 恋愛はもうこりごりと言っていたから、今夜の誘いは断りたかったはずだ」

 知らせなくていいことを彼に打ち明けていたのを思いだした。酒に酔った自分をシュゼットは後悔する。

「ちがいます。あのときは、酔っていたせいで思ってもいないことを言ってしまったのです」
「けれどきみは、心配してくれる両親の手前、俺の申し出を断りきれなかった」

 シュゼットの言葉を流すかたちでフィンはさらりと言った。ふと、彼の表情にわずかに自嘲がにじむ。

「そうと知っていて、きみに手紙を送ったんだ」
「ど、どうしてそんなこと」
「ごめん。こうするしかなかった」

 フィンの腕が伸びて、動揺するシュゼットの手を取った。
 手袋に包まれた互いの手が重なり、シュゼットはどきりとする。

「会わなければ、きみに俺を好きになってもらえないだろう?」

 馬車が揺れた。
 フィンの青色の瞳が、熱を秘めてシュゼットを見つめている。

「わ、わたしは、もう恋愛なんて」

 恋愛なんてしないし、あなたのことを好きにもならない。
 はっきりとそう告げなければならないことはわかっている。
 けれどフィンの瞳がそうさせてくれない。強い力でひっぱられるように、目を??心を、そらすことができない。

「シュゼットを抱いたとき、俺は、きみのことがかわいくてしかたなくて、この上なく優しく抱いたつもりだった」

 この人は毎回、とんでもない爆弾を落としてくる。

「けれど、きみのことを振ったという見も知らぬ男のことが??きみが恋していたという男の影がチラついて、嫉妬心がでてしまったことも否定しない。これから先ずっとシュゼットの瞳に俺だけが映り続ければいいのにと欲深い願いを持ってしまった」
「どうしてそこまで。理由がぜんぜんわからないです」

 シュゼットは混乱しながら首を振った。フィンは静かに笑みを深める。

「信じられない?」
「だって、一度会ってほんの少ししゃべっただけなのに」
「あの夜きみは俺を救ってくれたんだよ」

 小さな窓から降る月光に、フィンの金髪が淡く照らしだされている。
 まなざしには静かな情熱がこめられており、見つめられているとシュゼットの肌がチリチリと熱を帯びていくようだった。

「きみは知るよしもないだろうけれど、たしかに俺を救ってくれたんだ」

 優しくかさねられた言葉に、けれどシュゼットの心臓はずきりときしみをあげた。
(失恋の痛手から、わたしがあなたを救ったってこと?)
 以前から続いていたこの痛みが、彼と再会してからさらに強くなった。その事実にシュゼットは追いつめられそうになる。

「ああ、またその顔だ」

 フィンが苦く微笑する。

「過去の男がきみをそんな顔にさせるの?」

 自分はいったいどんな顔をしているのだろう。
 わからなくて、シュゼットは首を振った。

「ちがう……、ちがいます」
「許しがたいな」

 ささやかれて、彼の手が頬にふれる。

「きみが好きだよ」

 痛いくらいに鼓動が早まっている。シュゼットはもうどうすればいいのかわからなかった。
 どうすればいいのかわからなくて、ただ、顔をうつむけた。

「シュゼット」

 甘くかすれる声が肌をなでる。

「顔をあげて」

 あらがったはずだった。
 けれど気づいたら、指であごを掬い上げられくちびるをかさねられていた。

「っ、……」
「十日前、俺の部屋で夜をすごして、そのあと体は大丈夫だった?」

 くちびるを少しだけ離してフィンは問う。青い瞳に気遣わしげな色が揺れていて、シュゼットはなんとか首をふった。

「大丈夫、でした」
「体に変調はない?」

 そういえば昨日、月のものが終わったばかりだ。けれどそんなことを男性であるフィンに告げる必要はない。
 シュゼットは数秒沈黙したあとにうなずいた。

「大丈夫です。なにもありませんでした」
「……そう。よかった」
「かさねてお聞きになるなんて、フィンさまは心配性ですね」

 そう指摘すると、自嘲するような笑みをフィンはにじませた。

「となりにおいで」

 シュゼットの腰に彼の腕がからんで抱きよせられる。
 はす向かいに座っていたシュゼットは、かんたんに彼のとなりに移されてしまった。

「だめ、フィンさま……っ」
「フィンでいい」

 性急な様子で告げられて、くちびるをまた重ねられる。とっさにフィンを押し返そうとしたけれど、たくましい両腕に抱きすくめられて身動きがとれなかった。
 口づけがさっきより深い。
 本能的な恐れを感じて、けれどふれられた箇所からうずくような熱が生まれて、シュゼットは肩をふるわせた。

「や、っあ、フィンさま??」
「迎えにいったとき、きみをひとめ見たときから伝えたかったことがある」

 くちびるを甘く食んで、かすれた声でフィンは告げる。

「今夜のドレス姿も、夜露に光る紫陽花のようでとてもきれいだ」

 熱い恋情をはらむ瞳に見つめられて、シュゼットは動けなくなる。
 くちびるがまたふれて、力強く抱きしめられて、シュゼットはあらがうすべを失った。


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